加藤清正手習いの寺 妙延寺

妙延寺と日蓮宗について

津島には100か寺程のお寺があります。それほど多くのお寺がありますが、日蓮宗のお寺はここだけです。

ですので津島の中で「南無妙法蓮華経」を唱えるのはこちらだけですので、特殊なお寺かな、ということになります。

その「南無妙法蓮華経」というお題目ですが正面にお座りいただいているのが日蓮といって鎌倉仏教の日蓮宗の開祖になります。

 

で、日蓮聖人が真ん中に座っていらっしゃいますから、日蓮聖人がご本尊と思われる方が大勢いらっしゃるのですが、そうではないんです。その後ろにお釈迦様がいらっしゃいまして、こちらがご本尊です。

私共が読むお経は今、皆様の前に置かれている経本、「妙法蓮華経」ですが、仏様が一番最後に説かれたお経です。今まで仏様が説いてこられた教えの総まとめ、ということで長い、そして内容も難しいということで知られております。

お経を覚えるのも大変です。長いので。その意味を理解しようとするのも、またこれも難しい。

なので、まずはこのお経を唱え、精進しつつ信仰を深めていくわけです。

 

日蓮聖人が「南無妙法蓮華経」というお題目を皆さんに教えながら仏様の教えをしっかり信じて生きていく、それが大事ですよということが日蓮宗になります。

妙延寺と加藤清正について

このお寺は室町時代からありまして、私が43代目の住職になります。

今日のお話の中心は豊臣秀吉の家来、加藤清正が勉強に通ったお寺ということで、加藤清正についてです。

では、なぜ加藤清正が、ここのお寺に通ったかということになりますが、うまれは名古屋の中村区です。

中村公園の豊国神社のすぐご近所でお生まれになったとのことでございます。

しかし、3歳の時にお父様がお亡くなりになられて、お母様と清正、当時は夜叉若という名前だったのですが、は、これからの生活に困るということで、津島に住んでいらっしゃったおじさんを頼って津島に引っ越しをしてこられるんですね。

 

お母様はもともと日蓮宗の熱心なご信者様でしたので、ご主人様が亡くなってまだ間もないということもあったのでしょう。津島にいらっしゃってから当寺に通われるようになりまして、清正公がある程度の年になってきたところ、当時の9代目住職、日順(にちじゅん)のところに仏法と手習いを教わりに通われることになりました。日蓮宗ということで、こうしてこのようなご縁をいただいたのですね。

いろいろな記録が残っていますが、記録では5歳から7歳で手習いを始めたとされています。

そのお勉強をされているときのいろいろなエピソードが残っているのですが、有名なものが習字のお勉強をしたときに書いた半紙を松の木の枝に干した松、というのが長く本堂の西側に植わっておりました。今は墓地になっております。半紙をかけて干したので「草紙がけの松」として皆様に親しまれておったそうです。

残念ながら昭和の初めに枯れてしまいます。しかし、大事な松でしたので幹を切ってこちらのお寺に宝としておいてございます。

 

こちらの真ん中にに加藤清正公がお祀りされております。木造なのですが、これは熊本に本妙寺というお寺がありまして清正公の菩提寺です。こちらのお寺から150年ほど前に、清正公の出発のお寺であるということで贈られたものです。徳川の世が弱り始めた頃に、それまでは豊臣に関わるものはご法度でしたので清正信仰は隠れるようにされておったのですが、幕末になりましてからは表にだせるようになってきました。

 

大河ドラマで真田丸というのがありまして16話で登場するのですが、本編の最後にゆかりの場所として放映されました。皆さんの頭の上にある額の絵、ふすま絵ですが、松に半紙をかける様子を描かれたものです。あわせてご覧ください。

加藤清正と信仰について

皆さんもよくご存じだと思いますが、清正公は豪傑だったと知られています。朝鮮出兵では大将も務め活躍したと。豪傑というイメージがおありかと思いますが、それ以上に信仰熱心な方だったというお話をさせていただきたいと思います。

さきほどお話しした「妙法蓮華経」は非常に難解です。一朝一夕に理解できるものではございません。

清正公の生涯を見たときにこの「妙法蓮華経」という仏様の教えをしっかりと理解して終生実践していかれた方だと思います。

インターネットなんかない時代、仏教書が簡単に手に入る時代ではなかったのですが、かなり熱心に勉強されていたことがうかがわれます。

まずですね、なぜそのようなことがいえるのかといいますと「馬印」といって戦場に出るときの旗印ですね。手柄をたてればご褒美がもらえるわけですから、どれだけ戦で活躍するか見てもらうために自分だとわかる「馬印」をしょって戦うわけです。それをみなさんいろいろ工夫されるわけですが、加藤清正は「南無妙法蓮華経」というお題目にされるわけです。これは終生変わっておりません。

 

ちなみに当寺の御朱印もこちらのお題目を書かせていただいております。申し訳ないですが絵は描けませんのでこちらで(笑)

 

 

われわれ人間が感謝すべきもの、人として恩に感じなくてはならないものが4つあるといいます。

それは四恩といいまして、一つ目は父母の恩です。我々の我々が肉体をもって存在しているのはお父さん、お母さんのおかげです。お父さんお母さんにもまた、それぞれお父さんお母さんがいます。そうしてさかのぼっていくと、今自分があるのは大勢のご先祖様のおかげだということがわかります。

このうち一人でも欠けていたら今の自分はいないわけですね。

ですからよく先祖代々といいますが、自分が知っている3代くらい上よりもっと前のご先祖様まで考えてみると何千、何万というご先祖様のおかげで自分が存在していることになります

二つ目は国主の恩、この国主は、この世界の、目に見えない主ということです。この国、世界がなかったら我々は存在することができません。

三つめが一切衆生の恩。我々が生きていくうえで様々な命をいただいています。

四つ目が三宝です。仏様とその教え、それを我々に教えてくれる存在、つまり「仏」「法」「僧」です。

 

 

 

これを清正公は終生信じて生きていかれたのです。

清正公は豪傑といわれたくらいですから戦で人を殺めるわけですね。しかし一方でお寺を立てるわけです。

「妙」「法」「蓮」「華」「経」ひともじづつ名前につけたお寺を五か所建てます。

他にもたくさんのお堂やお墓を建てました。しかしそれは決して自分のためではなかったのです。

 

清正公は12歳の時にお小姓として秀吉に仕えることになった時に、全身全霊をこの人に捧げなくては生きていけないということを理解したはずです。

ということは手柄をたてないと生きていけません。それは戦場で人を殺めるということです。

 

その都度、清正公は考えたと思うのです。人を殺めるということは、先祖の縁を断ち切るということです。さらには先祖の供養をするひともなくしてしまうということです。

大きなお寺をたてれば施餓鬼法要として皆を弔ってもらえる、また、三宝を世に広めてもらえると考えたのだと思います。

ですから旗印も生涯貫き通したのではないかと思います。

 

 

今ですね、墓じまい、終活というのがいわれていますが、墓じまいや仏壇を閉じてきれいにしてしまおうという方がおられます。

しかし清正公はいつ戦場で倒れても自分も含めて自分に縁のあったものを救ってもらう準備は常にやっておく、と。

 

ですから自分からご先祖の縁を切ってしまうのではなく、どれだけ多くの方のおかげで自分があるのか、ということをですね、後世、次の世代に大事なことを伝えていく、ということを今一度考えてみていただきたいと思います。

テレビなどは視聴率があがるように楽な方法を紹介します。人間どうしても楽な方にいってしまうものです。

 

お寺というと難しいお坊さんが出てきて、高いお金をとられる、と思っていらっしゃる方も多いようですが()、大事なことを今一度考えてみていただきたいと思います。

 

こちらのお寺では、オリジナル御朱印帳・御首題帳などの販売もされており、ご住職がいらっしゃる際は御朱印授与の対応をしていただける。ちなみに日蓮宗のお寺では「ご首題」といって「南無妙法蓮華経」というお題目を授けていただける。日蓮宗の寺院では「ご首題帳」にしかお題目をいただけない場合もあるとのことなので、他の日蓮宗のお寺にご首題をいただく際は事前に問い合わせるなど注意が必要。

 

加藤清正公出発の地、妙延寺についてはホームページもご覧になっていただきたい。

 

https://temple.nichiren.or.jp/3041043-myouenji/

http://www1.clovernet.ne.jp/myouenji/