雲居寺の五百羅漢堂

津島市に興味を持った名古屋外国語大学(愛知県日進市)の学生が調査したところ、東海三県の全市町村の中で、津島市の寺密度が最も高いことが分かったとか。

これを記念して、津島市の企画した【津島てら・まち御縁結び】が、2018年7月15日(日)開催された。

 

『五百羅漢像』で名高い、龍宝山 雲居寺(津島市北町32)の 神野住職から、法話を聴くことができた。

曹洞宗について

「雲居寺の宗派は、曹洞宗です。曹洞宗は、總持寺と、永平寺、二つの寺が両本山とされています。当時は、法の流れで言えば、140年ほど前に能登から横浜に移転した總持寺を基としているんですが、總持寺の基本山が福井の永平寺となります。

 今から780年ほど前、福井に永平寺が開かれました。道元という方が、中国で学んできたことを基に色々な教えを広げた道場が、永平寺なんです。ところが、永平寺、道元禅師の教えを直接受けた三代目と四代目で、ちょっとした論争、揉め事がありまして。三代目が若くして納まったことから、歳いった四代目は面白くなく、意地悪をして追い出してしまったんですね。追い出された三代目は仕方なく、金沢に移って大乗寺を開きました。この二代目に就いた方が素晴らしい人で、後に總持寺を開いたんです。

 現在、日本の曹洞宗は、全国に1万5千箇寺を擁する、日本一大きな集団です。浄土真宗という大きな宗派がございますが、本願寺は3つほどに派が分かれておりますので、一宗一派としては曹洞宗が一番多いという事になります。色々な宗派がありますが、中でも座禅をする宗派が禅宗と云い、その一つが私ども曹洞宗だと覚えていただきたいと思います」

 

雲居寺について

「雲居寺を開いたのは、宝山玄珍という人です。開山されてから、20年後に亡くなられている方です。今市場にある興善寺が本寺です。あと11年しますと開創されて600年になる、長い歴史を誇る寺です。

 お寺は、住職だけでは成り立ちませんので、お寺を開くためには開基と申しまして……分かりやすく言えばスポンサーがいます。それが、服部伊賀守宗純という方です。弥富市の五ノ三に服部家の遺構があることをご存知の方もいらっしゃると思いますが、そこに600年ほど前に移り住んだ方で、元々は津島「四家七名字」の出です。

 服部家は代々栄え、宗純公から数えて9代目に当たる人は、服部小平太一忠という方とされています。室町時代末期、織田信長公の馬廻として仕えていたそうです。この雲居寺を護持するだけでなく、弟の服部小藤太と共に信長の家臣として、尾張国津島辺りで一所懸命に働いていた訳です。

 服部小平太は、桶狭間の合戦で敵将の今川義元公に一番槍をつけたと言われております。「服部小平太」という人は二人存在することが分かっているのですが、もう一人は東京のお寺の開基で、しかも没年が天正15年ですので別人かと思われます。信長が本能寺で自刃したのは天正10年6月2日(旧暦)で、その時に小平太の弟・服部小藤太は一緒に死んだとされています。服部一忠はその後、豊臣秀吉、その婿の秀次に仕え、松阪城2代藩主として迎えられています。ただ、秀頼が生まれたために秀次は疎まれて、謀反を企てたとして文禄4年7月15日に切腹を命ぜられました。服部小平太一忠は、その時に連座して詰め腹を切ったとされています。7月15日……旧暦ですが、まさに今日のことですね。今日は、服部一忠の命日とされているんです。

 爾来、この寺では服部家の御位牌を祀っておりまして、それだけではなく敵将の今川義元公の菩提も弔っております。今でも毎朝のお勤めで、両氏を偲んでずっと御供養させていただいています。来年の5月19日には義元公の御位牌も作り直し、服部家の末裔の方をお招きし、法要を行おうと考えております。桶狭間の戦いで今川義元が命を落としてから、来年でちょうど460回忌になります」

「雲居寺は600年の歴史の中で、名僧と呼ばれる方も輩出しています。当寺の22代目、80年ほど前に住職をなさっていた橋本恵光老師……この方は、それまで語られていなかった道元禅師の教えを懇切丁寧に紐解き、戦後、法を失い荒れ果てていた永平寺を立て直した方なんですが……この寺でも老師が厳しい修行を行っていました。私の父が修行しているお寺から雲居寺へ帰ってくると、よく「本山や修行道場よりも、雲居寺の方がきつい」と申しておりました。暇があったら、座禅ばかりさせられたんだそうで。

 座禅は何が良いかといえば、自分自身を見詰めなおすこと、心を穏やかにするということです。難しいことは何もないんです。ただ、両足を組んで、背筋を伸ばす。息をゆっくり吸って、長く吐く。そして、目を瞑らず1mくらい前を見て、ただひたすら黙って座る。これだけなんですよね。これが、座禅なんです。今日は良い機会ですので、「いす座禅」をやってみたいと思います。座禅は、畳の上でも、ソファーやベッドの上でも、腰掛けていても出来ます。まず、背筋を伸ばします。横から見て、骨盤の上の背骨を前に押し出すようなイメージで、そうするとお腹が前に出るような感じになります。そして、胸を大きく反らします。「気をつけ」のような姿勢ですね。頭は真っ直ぐ、少し顎を引き、1m前を見ます。腰掛けていますから足は組みませんが、手は印を結びます。印を結ぶとは「繋がる」という意味がありまして、頭から文殊菩薩の智慧が入り、体から結んだ手、そして足を通じて、五体全てが繋がる、全ての智慧が回るということです。右の掌の上に、左の掌を乗せます。そして、親指を真ん中で合わせます。この形が崩れないようにします。三角形になったり、離れたりせず、中に小さな卵が一つ入るくらいの間隔を空けて、足の上にぽんと置きます。呼吸は、1、2、3で吸ったら、1、2、3、4、5……と、吸う時より吐く時に時間を長く費やしてみてください。ただ、いきなりやり始めるのではなく、徐々に始めます。動いている振り子が、段々揺れも小さくなり、真ん中でぴたりと止まる。それが、正しい形で座るということです。座禅は、「調身」身を調え、「調息」息を調え、「端座」しっかり座る、ということを念頭に置いていただければと思います。座禅中は、目を瞑ってはいけませんし、物事を考えないように、「行雲流水」……行く雲が如く、流れる水が如く、入ってくることを一々自分の中に取り入れないで、流すような気持ちでやっていただくと良いかと思います」

 

道元禅師について

「道元禅師は今から780年ほど前に福井の永平寺を開かれているんですが、その20年ほど前に中国、当時の宋に行って、5年間で色々なお寺を回られています。最後に行き着いたのは天童山 景徳寺という禅寺で、そこにいた立派な指導者・天童如浄という方の教えを学び、印可を受けて御釈迦様から如浄禅師に伝わる法を初めて外国人として受け継いだのが、道元禅師です。

 中国での修行時代、土用の灼日といいますから大変暑い日の昼下がり、お寺の前の石畳の上で、背筋が海老のように曲がって杖を引いた眉は鶴のように真っ白な老僧が、左手に籠を持ち、一生懸命に椎茸を干しておられたそうです。道元禅師が典座(てんぞ=禅院で料理を司る僧侶のこと)老師に「こんな暑い中、御一人で、それも体調も優れないご様子……行者(あんじゃ=若い修行僧のこと)に任せたらどうですか?」言ったところ、老師は一言「他は是れ吾にあらず」即ち、「他人のしたことは、私のしたことではない。私は天童山300人という大所帯の料理長であるから、自らがやらねば誰がやる」と仰ったそうです。続けて仰ったのは、「更に何れの時をか待たん」つまり、「今を逃して、何時やるんだ。椎茸や梅を干すのは、この土用の暑い時季でなければならないのだ」、と。道元禅師は日本に帰り、『典座教訓』という本を書いています。日本で初めて料理マニュアルを書いたのは、道元禅師なんです。

 この他、歯の磨き方、汚い話で申し訳ないですが、用便の仕方……謂わば、ウォシュレットの元祖……こんな事を日本で初めて書いたのも、道元禅師なんです。ただのマニュアルではなく、「半杓水」という禅の教えも学べるようになっています」

羅漢堂について

「当寺には「羅漢堂」があります。五百と十六体の羅漢、そして御釈迦様と、文殊菩薩、普賢菩薩、全部で519体が安置されています。プラス、「賓頭盧尊者」といいまして、本来は五百羅漢に入るんですけど、お酒を飲んでいて御釈迦様の説法に間に合わなかったため羅漢に入れてもらえなかった尊者さんがいます。番外として全身赤く塗られているのを見て、「見せしめのためだ」と言う人もあれば、「お撫で佛だから、さすると悪いところが治る」と言う方もいらっしゃいます」

この日はお参りにいらした方限定でだるま画付き御朱印が授けられました。