「お寺によって、生き方……運営の仕方があるんです。京都なんかのお寺は、観光を主にやっていますし、檀家さんを大事にしてるお寺は、法要や法事ばかりで観光は相手にする時間がありません。お寺にいて、お参りに来られる方の相手をしてやっていければ本当は一番の理想なんですけど……」
そういって笑う安部真誠住職に、西方寺(岳翁山 往生院:津島市天王通り四丁目二十三番地)について、そして本堂に安置されている十王について、お話を伺った。
「十王信仰は、津島独自のものではないです。ただ、分かっているだけで津島の旧五ヶ村(米之座、堤下、今市場、筏場、下構)がそれぞれ十王さんを持っていて、一ヶ村は焼けて失くなっているので、4つの十王さんが現存してます。
全国にも、十王さんはあります。調べてもらったら、「十王町」、「焔魔堂町(えんまどうちょう)」、そういう地名が残っています。地元の人に由来を聞いても「知らん」と言われることも多いんですが、昔あったのが燃えてしまって名前だけ残っているということでしょう。十王さん……十体の王様の中で、一番中心が閻魔様ですので、閻魔さんだけが残り閻魔さんだけを祀っている所もあります。京都にも有名な「千本ゑんま堂」(京都市上京区)がありまして、沢山の人が御参りしています。引接寺(いんじょうじ)という、小野篁(おののたかむら)所縁のお寺です」
「日常生きていると、悪いことだと知りながらどうしても犯してしまう罪があります。西方浄土へ旅立つ時には、少しでも楽に極楽往生を願いたいのが、皆の最期の希望であると思います。そこには一つ、医学もあるんですよ。現代では重病で亡くなるにしても、色々な痛み止めなどの苦痛を和らげるものがあるんですけど、何百年も前は何もありません。亡くなる事というのは、それこそのた打ち回るような状況が普通にあったと思うんですよ。そういう光景を見ていた昔は、死という物への恐怖感が今より遥かに高かったはずです。せめて死の先は助けてもらいたい……そんな思いで、十王さんを一生懸命大切にしていくことだったんだろうと思います」
「今の天王川公園の北にある秋葉神社に前の西方寺がありまして、今は橋詰町ですが昔は堤下だったんですね。この十王像は、その堤下の村の中でお祀りをしていた十王さんなんです。江戸時代の初め頃には、津島さん……津島神社へお参りする方々の為の旅籠がたくさん並んでいた場所でした。
そんな環境ですから何回か火災がありましたが、西方寺も類焼によって燃えて、再建して……また燃えて、再建して……また燃えて、もう再建が出来ないということで、橋詰町を去って、今の場所に移ったんです。
ここは尾張藩の役所跡と言いますか……その昔は、ここに布屋城というお城があったんですけど、その城址に尾張藩の管理した役所のお屋敷があったんです。津島神社に参拝されるお役人の方たちの定宿になっていた関係で西方寺は尾張藩と親しかったので、譲り受けて移ってきたんですね。その時、どういう訳か十王さんも一緒に移ってきたということです」
「昔の木造というのは、全部寄木です。一つの木を彫って作る訳じゃなくて、それぞれパーツになってますので、実は首が抜けたりします。膠という接着剤を使っていますが、何百年も経てば取れてしまいますので、酷い状態だったんです。ここの本堂を建て替える時、縁あって京都の仏師さんに頼み込んで直してもらいました。古いながらも色は残っておりますして、新しく色を塗り替えると古さが失われてしまいますので、なるだけ古い色は残して薄っすらと補色してもらってます。仏師さんは「お顔の表情にしても、良い作品ですね」と言ってくださいました」
「一番(秦広王)、二番(初江王)、三番(宋帝王)、四番(五官王)までは、人を殺す、嘘を言う、色情に狂う、人を陥れる、嘲る、悪口を言う、二枚舌を使う……そういう悪い罪をどんどん「そうじゃないだろう」「正直に言えよ」と追及していくんです」
「五番が閻魔大王なんですが、「お前は正直に述べたのか?」と聞かれますと、怖いから嘘を吐いてしまいます。でも、閻魔さんの横には必ず浄玻璃鏡がありまして、鏡に全部映っちゃうんで、免れることはできないんです。嘘を吐くから、罪がもう一つ増えちゃって、舌を抜かれるんです。ですが、閻魔大王は、地蔵菩薩の化身なんです。閻魔さんとお地蔵さんは、表裏一体なんですね。自分は地獄に落ちる覚悟で正直に述べた人というのは、全部閻魔さんが救ってくれるんです」
「お地蔵様も持っておられる錫杖は、歩く時に突いて使います。そうすると、音が出ますね。これは、地面の生き物たちに「これからそっちを歩くので、気を付けなさい」という仏様の慈悲なんですね」
「閻魔さんを境にして、六番(変成王)、七番(泰山王)、八番(平等王)、九番(都市王)、十番(五道天輪王)は、救済の仏様なんです。「罪を犯してきたものの、お前はこんな良いこともした」「誰かを助けた」ということを見つけてもらえるんです」
「正渡河婆(脱絵婆)は、十王の数には入っていないんですが、主演女優賞ですよね。かなりの存在感があります。私も、小さい頃は怖かったです。閻魔さんの奥さんとも言われています」
「これは、掛け軸を額装にしたものです。箱を見ると、「元禄十三辰(1700)年」とあります。「橋詰町」とあるように、西方寺は元々橋詰町にあったんです」
「西方寺を開いた方と、寺を再興した住職が描かれています。この後者の方の弟子が当寺の十二世で、謂わばお師匠さんの功徳のために作った掛け軸だったんでしょう。ちなみに私は三十世ですから、十八代前の頃ですか。
正面に描かれているのは、地蔵菩薩ですね。向かって右が弁財天で、左が毘沙門天でしょう」
「その他、うちの寺に十王さんを描いた掛け軸が4つあります。大きいものですし出すのが大変なんですが、毎年8月、その年によって変わりますが、8月7日~15日だったら確実に掛けております。防犯上鍵を掛けておりますので、間近でご覧になりたいのであれば、連絡をくださってから来ていただくと良いでしょう。
地獄絵というのは、人が生きていく上で、「悪いことをしちゃ、いかんよ」「罪は償うことになるんだよ」という仏教で言う因果応報を教える、一つの戒めのためにあるんだと思います。
うちは浄土宗なので、阿弥陀仏の信仰です。「念仏往生」……念仏を唱えたものは、必ず阿弥陀さんの御救いを受けて極楽に行けるということです。念仏を唱えれば、今までの罪、穢れは悉く取り消されて、往生できるということなんです。そういうことからすると、浄土宗的には「地獄絵なんかは必要ないんじゃないか?」となるんですが、ここのお寺に入られる方の全てが浄土宗の信者さんではないので、一般論としての仏教観を示すということだと思います」
「私の住民票があるところは、滋賀県の大津市なんです。滋賀には30年住んでいて、縁があって自治会長の役を引きうけていたりで(笑)。
生まれは津島なんですよ。津島高校を卒業して、京都の佛教大学に行ったんです。佛教大学は浄土宗の学校で、一応4年間で卒業しました。この寺は父親が住職をやってまして、一人でも有り余る感じでしたので、私が帰ってきても仕事が無さそうで……帰ってきて、何か他の仕事との兼業も考えたんですが、全く違う畑を両方掛け持ちするのは自分の力量では無理だと思ったんですね。出来れば、違う場所にいても同じ畑でやっていきたかったというのがありました。それで、こっちに帰ってくるより京都に留まったんです。大津は京都の隣町です。
10年前に父が亡くなったので、津島に戻るようになったんですが、なかなか家庭の人たちは一緒について来てくれない(笑)。困ったなと思ったんですけど、何とか一人で動き回ってます。京都には浄土宗でも全国から人が集まってきますし、色々な情報、刺激がここにいるよりは溢れています」
「本尊の阿弥陀如来ですが、仏師さんに胎内は煤だらけだと言われました。特に当寺のことは話してなかったんですが、「何回も火災に遭ってますね」と」
「仏像というのは鎌倉時代くらいが多いんですけど、仏師さんによると時代によって作り方に特徴があるので、ある程度は判断できるそうです。うちのご本尊も中身は燃えてしまっていたので正確には年代を特定できないんですけど、阿弥陀さんの形から判断すると鎌倉時代より古いものだと思われるそうです。平安時代の仏像というのは非常に体が細くて薄く、顔の彫りが浅いらしいんです。この阿弥陀さんにはそんな特徴が出てるので、非常に古い仏像の可能性が高いそうです」
「それで、私は仏師さんに聞いたんです。「でも先生、この寺は室町時代に出来た寺なんですが、何故それより古い仏像があるんでしょう?」と尋ねると、鎌倉から室町に掛けては、朝廷の許しが無いと仏像を作ることが出来なかったそうです。朝廷は、仏教を恐れていたんですね。お寺に火が出ても、仏像だけは持ち出す……命に代えてでも仏様は守るという人が世の中には沢山いらっしゃったんで、仏像だけは何とか残ります。お寺が焼けると、仏様はどんどん引っ越すことになるんです。このお寺が建てられた時、この仏様は既にあって、縁あって祀られたということなんじゃないかと思います。ご本尊は、必ずしもそのお寺が建てられた時に作られるものではないんですね」
「第二次大戦の頃は、昭和七年生まれのうちの父親が「何かあったら持って逃げる」役だったそうです。ある時慌てて持って出た時に、引っ掛けちゃってポキンと折ったそうです(笑)。この右肘のところです」
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